昭和40年02月08日  夜の御理解



  もう十五、六年も前の話です。私が、福岡の長浜町におります、云うならば、私の修行時代のことでした。やはり、今と同じ、お月次祭を四回仕えておりました。そこは四畳半の畳もしかってない、雨が降れば、まあその小さいお広前、四畳半のお広前がもういたるところ雨漏りがすると。お参りをしあわせておる人は、傘をさしながら御理解を頂いたと云ったような、云うならすさまじい、ものすごいお広前でした。それでもやっぱり、お月次祭と云うと皆、そこ一杯集まって、御理解を頂いたもんです。
  そう云うようなお月次祭を仕えさせて頂いておる時でした。勿論、水玉はお水ですけれども、お神酒錫(おみきすず)の中もお水でした。お魚なんかありませんからいりこのような物でした。それにお漬物、漬物屋から頂いた、ただでもろうて来ておるタクワンの腐ったようなもの、それの奇麗な所だけを取ってから、それがお三方一台。ニラがずいぶん出来ておりました。
 ですから、ニラが一台と云うような、云うなら大変お粗末なお月次祭でしたけれども、そのニラ一本一本に、そのタクワンの一切れ一切れにですね、もう一生懸命の思いを込めての時分です。それに盛り塩が供えてあるという程度のお月次祭でした。そんなお祭りを奉仕させて頂いております時に、私神様に頂きました御教えの中にですね、『水づくし魚づくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ。』と頂きました。
  本当に水づくしなんです。けれどもこれが魚づくしになるまでは、離れられぬが私の心だと神様が教えて下さる。もう本当に感激一杯で、お祭りを奉仕させて頂いたんですけれど。 本当に、椛目に帰らせて頂いたらもう途端、沢山の人が助かり、沢山の人がお参りして来る。沢山の人が沢山なお供えをする。ね、今月の月次祭なんかは、大鯛だけ何枚あったでしょうか。それに大ブリお魚だけでも一級酒、特級酒が何十本、ずらっとそれこそ、御神前狭しとお供えが集まるようにならせて頂くおかげを頂いて。
  そこでです、ね、魚づくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃと仰るその神様がです、そんなら、水づくしぢゃない、魚づくしになり、お神酒づくしに御神前がうまるようになったら、神様は、もう離れてござるかと云うことです。今晩はそういうところを一つそ聞いて頂きたいと思う。ね、  私にはっきりそう教えておられる。魚づくしになるまで、わしはお前から離れんぞ、と。
 そんなら、魚づくしになった、魚づくしどころではないもう本当に一切のものがです、人間生活させて頂く上に、もうこれが最高であろうかと思われるようなものばかりが、いわば御神前を埋め尽くすようにならせて頂いたら、そんなら、神様は離れておられるかと云う事。離れてござらないですね。歌の文句ではないですけれど〔あなた正宗  わしゃ錆刀  あなた切れても  わしゃ切れぬ〕 神様を正宗に例えさせて頂く。神様がきれると仰ってもこちらの錆刀の自覚のある限り、切れはせんのです。
 所謂、私自身、屑の子の自覚と云うのが深まれば深まる程です、神様が切れると仰っても今度はこちらの方が切れられんのが氏子であると云う事になります。 信心させて頂いてです、ね、初めの間はおかげを頂くために、御利益を頂く為にけいこじゃない、信心をさせてもらうのだけれど、それからお話を頂き、信心の道も分からせてもろうて、分からせてもらえば分からせてもらう程、もう当然、当り前、この神様のおかげを頂かねば立ちゆかんのであり、ね。
 いよいよこの神様のお心を分からせてもろうて、そのお心に添うていかなければおられんのであり、いやそうしなければばからしいのであり、この世で一生五十年いや百年に致しましても、この世の五十年百年と云うようなものは、もうそれは実に短いものであって、永劫(えいごう)の助かりと云うような事がです、少しでもおぼろげにでも分かって来る様になったら、この世での三十年五十年の修行位は問題じゃない。
  いよいよ神様を私と共にです、私の中に頂きこんでおかなければ、相済まんのであり、馬鹿らしいのであり、人間氏子は、皆そうならなければ実を云うたら、神様のお心を安(やすん)じ奉る事すらもでけんと云ったような、まあ云うなら難しい事も段々分かってくる。おかげ頂くからするのじゃない、せにゃおられんのであり、ね、親と子の続柄と云うか、関係においてです、切ろうとして切れるものではないと云う事。
 神はわが本体の親であり、信心は、もうその親に孝行するも同じものであるから、親に喜んでもらい、神様に、所謂、喜んでもらえれる生き方、あり方に私どもならなければです、私共としても馬鹿らしい事であると云うような大変な事を分からせて頂くのである。そして、分かる事は、いよいよ錆刀の自覚である。研いても研いても身が鉄ならば、時々は浮気の錆が出ると云うように、下から下から汚いものがある。
 錆が出ておる自分と云う、自分のようなつまらんものがと云う自覚、屑の子の自覚と云うものが、いよいよ強うなってくる。今朝から丁度、朝の御祈念の御理解の半ば頃でしたでしょうか、日奈久の教会の富永先生が夕べ夜行でみえて、今朝こちらに着かれた。ここのお広前に入らせて頂く、同時にマイクに流れておる御理解が入口で立ってきかせて頂いて、一番初めに私の心をとらえたものは「調和」と云う言葉であった。
  私共と神様との間に一つの大調和の心と云うものがです、いわば人間の幸せを左右するのであると云う事。と云うような事を今日は申しておられまして、御理解を頂き終わってから、丁度、昨夜から、長男が帰って来ておりますし、それから古賀先生、そしたら丁度、女子青年の方達が千恵子さんと中村さんが参って見えた。それで、あなた方達だけで、今日は一つ、ここ二日余りの御理解をずうっと一つ頂いてみて下さい。
 そして何か、その御理解の中から一貫したものをです、何か皆さんの信心でまとめてみて下さい。とにかく今朝は御理解を頂く会を、一つ皆さんでやられたらどうでしょうか。先生方2、3人、それから次々お参りしてくる人達で、そこお広前一杯になりました。それで御理解を十一時頃まで、何時間にわたってから六日の朝からでしたか、六日の朝、晩、七日の朝、夜の御理解、そして今朝の御理解までを頂いて、それを各々メモしておられるのを出し合ってそこで信心の共励。
  おかげと云うものと、信心が分かると云う事はちょっと別ですね。今日の御理解でもずうっと頂いてから、丁度、北野の中村さんが参り合わせておられたのですけれど、御理解半ばに立ってきてから、「先生、おかげ頂きました。」と云うてから、ここに見えられました。それは、どう云う事か分からんけれどもです、その御理解のどこかがです、中村さんの心をポォツとつかんだんです。ハァ-ここが出来てなかった。
 これがおかげ頂けない元であった。もう早く帰って、それを実行したいと云う感じなんです。それで、もう、すぐ帰られたんですけれども。おかげは、それでおかげ頂くです。けども、信心が分かると云う事はやはり、今日の五回なら五回の御理解を頂いてみて、そこに一貫したもの。そして、どう云うような事を神様が私共に求めておいでられ、ためには、どう云うようなあり方にならせて頂かなければならないかと云ったような事が、五回の御理解を頂いてから、皆さんそれぞれに感じられた。
  それで、結局、七日の御理解に焦点をおいて、その後先の御理解があるんだと云ったような所に結論が出ております。皆、結局おかげから始まり、そのおかげから信心体験がです、段々重なってくるに従って、本当の信心が段々分かってくるようになり、信心とは、本当に自分の心に安らぎを頂く事であり、同時に魂が助かっていくと云う事。そこを目指すのであり、そこに自ずと人生観は変わってくるのであり、自ずと、ね、死生観までが出来てくると云う事。
  そして、宗教の目指すもの、宗教をするものの一番究めた所っです、は、ここを頂く為に宗教をするのである。ためには、やはり体験、そして、信心が分からせて頂いて、その所に到達していくことの楽しみが信心生活でなからなければならない、と云ったような事に結論されておる。丁度、皆さんの話し合いがすんだ所、私十一時頃、そこに立っていってから、「どうでした。どう云う風に結論が出たか」と、皆さんやはりそれぞれにです、やはり良い所を、先生方ばっかりですから、出ておりました。
  ですから、ここんところを、この全部マスタ-する事になり、こういう境地を自分の心の上に開かせて頂く為には、一番必要なのはどういう事かと云うと、先ず、憧念心であるという事。信心の楽しみであるという事、椛目に対する憧れの念であるという事。次には、信心の度胸であるという事。信心の稽古をさせて頂く、云わば、行く手にはです、恐いものはないという確信をもつという事だと。
 どういう中にでも飛び込んでいけれる所の元気な心が必要であるという事だと。そして、そこに体験するものは怖いものはないということだと。そしてそこに出てくる答えはです、何かというと、結論すると、結局、有難しという事になってくる。有難しの追究であるという事。ね、ここになったら、もう限りがないという事。甲の人が有難いと言っておるものと、乙の人が有難いというておるのは、同じ有難いで、性質は同じであっても、その深さ広さにおいては、大変な違いである。
 その有難いというのが、自分自身を安心、自分自身を楽なところにもっていく。一家中を安らぎの家庭にする。何百人、何千人をです、その、只、有難しの一つで助かってもいくというような事になってくるというような事であった。そしたら、今、古賀先生が、「大体、先生、その有難いという事は、どげな事ですか」という事になった。皆さん、有難い有難いというてるけど、どういう事だと思いますか。
  難しい事ですね。けども、ここが分からなければ、やっぱりいけんのです。ああ、古賀先生、素晴らしい質問だと私は思った。「大体、有難いというのは、どういう事でしょう。本当の有難いとは、どういう事だろう。」そうね。例えば、おかげを頂いたら有難いと皆が言うことは言う。けども、ただし、本当の有難いではないごとあるですね。真に有難しというのではない、それで私は申しました。
  真に有難いというのは、ね、苦しいけれども有難い、腹が立つけれども有難い、暑いけれども、寒いけれども、ね、はがゆうしてたまらんのだけれども、有難いという有難いが、本当の有難いのだと私は思う。意味が分かるでしょうか。たたかれれば痛い。痛いけれども有難い。ね、神様が痛い思いをさせてでも、ここを分からせようとなさる事が、本当に分かった時に、痛いけれども有難いのである。腹が立つけれども、暑いけれども寒いけれども有難いと云う、この有難いが、ほんなもんじゃなかろうかと。
  私は「先生、先生の御居間にかけられておる、先生の教えの句がかかっとります『欲しいとも思わぬ  雨だれの音を聞く』こう云うような境地でしょうか」と「サァ-ナ-、そうでもなさそうですな。あれは例えば私がです、もうそれこそ祈りも果てて、私一人が楽室に控えておる時におしめりがありました。何とはなしに良い気分である。お茶でも立てようかと思ってお茶でもさせて頂いた。もう何ともいえぬ気分である。
  雨だれの音を聞きながら、何もいらんという気がした。そりゃそうでしょう。お腹は丁度ひもじいもなか、丁度よい状態。痛いこともなからなければ、痒いこともない。そして、私が好きなお茶の点前どもさせて頂いて、じっと目をつぶって雨だれの音でも聞いておったら、何もいらんという気がする。素晴らしい事である。けれども、それは、そう云う情景、そう云う雰囲気の中にあってです、痛くもなければ痒くもないから有難いというのであって、これはほんなものじゃない」て、ね。
  痛いことがあり痒いことがあり、心配でたまらんことがあるけれどもです、けれども有難い。こういう心配の時にです、神様一心にすがれれる神様を頂いておるということが有難い。有難いというのはそれが本当の有難いです。ハァ-成程そうですね、と皆さんその有難いし、本当の有難いというのはそういうものだと。 だからここまでは皆さんがどうでも、この有難いを、私、体認しなければいけないと思うんです。
 又、体験しなければいけないと思うんですよ。そこで私は信心させて頂くものの値打ちというか、妙というものがあると思うんです。ね、たたかれけば痛いのですけれども、痛いけれども思えば思う程有難い。ですから、その痛いとか痒いとかいうような事がです、その有難いで消えてゆくような気がします。ただそこのところの信心をそこのところ迄は頂かなければならない。
  教祖の神様が、お神上がりになる時「まだ夜は明けぬか」と仰った。「ハイ、まだ木綿崎山にようやく朝日がさしそめました」と申し上げたら、「ああそうか」と、「ああ心安し」と、それが最後のお一言であった。私は、そんなことを思わせて頂いておったら、今日も、古賀先生が申しました、「ハハァ-成程、真に有難しというのはです、只今私が申しますように、痛いけれども有難い、痒いけれども有難いという。
 その有難いという内容がです、段々、おかげを蒙らせて頂いて、痛いこともなくなりゃ、痒いこともなくなり、欲しいこともなくなり思うこともなくなりというような中からです、いわば、そのいよいよあの世にやらせて頂く時でもです、痛いこともなからにゃ、痒いこともない。「ああ心安し」こう一言を残して、あちらに移っていけれる状態。これが、やはり本当の有難いのだということ。ね、究極のところは、そういう素晴らしい有難しを目指してのもの。
  それは、雨だれを聞くとか、聞いてのものではなくてです、何にもなかってもです、そこに痛いも痒いも感じんですむような大みかげを蒙らせて頂いて私は、本当の有難しというのがあるということ。けれども、ここのところは、やはり、今私が申しますように、痛いけれども有難い、痒いけれども有難いというところ・・・・・。そういう私はおかげを頂く為に、私が一番初めに申しましたように、ね。水づくし  魚づくしになるまでは  離れられぬが  わしの心じゃ。
 と神様が、皆さん一人一人の上に思いを寄せて下さるような、私信心が今こそ皆さんには必要な時じゃなかろうかということです。お前が何というても離れんぞ、と、お前が本当に魚づくしになるまでは、所謂おかげづくしになるまでは、離れられぬがわしの心だと、神様が皆さんに囁きかけて下さるようなです、私は体験を今こそ頂く時じゃなかろうかと。そしておかげを頂いた暁にです、神様が例えば離れると言われる時には、そこには既に、親子のいわば続柄ということの意味合いもわからせてもらい。
 形の上ではそういう関係もわからせてもらい、情の上においてはです「あなた切れても、わしゃ切れられん」という情が出来てこなければならんのだと。いうことを思いますですね。いよいよ、神様との間にです密なるもの、絶えず交流しておるもの。そこから、痛いけれども有難い、暑いけれども寒いけれども有難いというようなものが頂けてくるのじゃないかと思うのです。そういうところに今日は、ね、ひとつ焦点をおいて、共励をなさったら、どうでしょうか。おかげを頂きますように。